湊 酒 田 の 歴 史


 酒田の発祥の地は飯盛山(標高41.8m の小高い砂丘)の西側とされております。当時酒田は向かい酒田(1600年以前の酒田)と云われております。度重なる洪水の為に大規模な河川改修がされ現在では海岸から約6km入った場所にありますが、其の痕跡はありません。洪水のために1500〜1600年の間に現在の当酒田(現在の酒田市)に移転しました。現在、飯盛山は「日和山公園」の日本最古の方角石のある東屋から見て、南東に位置しております。この位置に最上川と旧赤川(度々の洪水の為、浜中地区に赤川放水路が作られ河口を移転した。この赤川の新河口はサクラマスが釣れるので有名である。)の合流点があった。漁協の石油タンクのある辺りは大正時代までは中州になっていたが、手前の新井田川(現在の本港がある。)と完全に分離された。現在、飯盛山は飯盛山公園となり「古寺巡礼」、「室生寺」、「ヒロシマ」等で有名な酒田出身の土門拳の「土門拳記念館」近くには酒田市体育館、酒田市美術館、福祉大学等の文教施設がある。
日和山から見た飯森山 飯森山の西側 土門記念館の裏飯森山
1470年頃の酒田付近 現在の酒田付近と古地図(白) 江戸時代の酒田
708年 和銅元年に越後の国の一部として出羽郡が設置された。
709年 「続日本紀」によれば出羽の柵(酒田湊付近か=度重なる洪水で位置不明?城の輪の柵?)に佐渡、越前、越中、越後の4ヶ国から武器、兵員を船百艘を持って送ったとあります。
712年 出羽国の国府が設置(東田川郡藤島町平形辺り)された。その後も武器、兵員を度々送っているおり、酒田湊(袖の浦)近辺に船百艘を係留できる官営(古湊、吹浦)の湊があったことが分かります。其の「官営の湊」が、最上川の河口の潟湖なのか、古湊(酒田市古湊地区=当時酒田湊の北にあり日向川の河口に湊があったと云う。江戸時代になって市内林昌寺付近まで蛇行していた日向川の流れが変わり現在5〜600m北に河口を移している。)なのか、不明。出羽国まで上り47日、下り27日海路52日とあります(延喜式967年の調、庸の条=税金を運んだ日程)。
733年 秋田村高清水水岡に移ったが、蝦夷の抵抗があって804年に出羽郡川辺の府に移された。この川辺の府というのが、城の輪の柵で規模から云っても最有力となって定説となっている。その後一時国府が近くの八幡町の八森遺跡に移されるが、また城の輪の柵に戻っている。その近辺に20箇所の遺跡が発掘されては居るが、まだ1/10の発掘でしかない。一辺を720mとする政庁後が見られその外側にはかなり広い条里制が敷かれた街造りがなされている。これによって単なる軍事施設ではないことが分かる。集落は12世紀に入ると無くなっている。国府の弱体化=武家社会の到来を意味しているのではないか?と思われる。他の出羽国では竪穴式住居であるのに、此処では殆どが掘立柱による住居であった。また、周辺には国分寺跡と見られる堂の前遺跡も見られる。
平安時代の酒田付近 160年前の酒田付近 143年前の酒田付近
その後、酒田が歴史に出てくるのは「805年蝦夷征伐で名高い征夷大将軍陸奥守坂上田村麻呂の論奏により出羽国府(城の輪遺跡=酒田市本楯大畑地区)を立てる。」(三代実録)」とあります。
城の輪の柵イメージ 城の輪の柵出土品 日本最古の将棋の駒
806年 東夷の賊を征するため酒田城を築く(荘内年代記) とあります。この時代から室町期までは酒田市飯森山(41.8m)の西側付近(向い酒田と云う)の最上川と赤川の合流地点(銚子口でもあり海側に大砂丘があり潟湖を形成していた。冬に強い北西の季節風が吹たりすれば河口が塞き止められると云うことも度々あった。又洪水などで次第に潟が埋められて行き次第に最上川が北の方へと流れを移していく。)にあった。
830年 出羽国大地震で税金(祖、調)免ずる。
850年 出羽国大地震で城柵が傾き人が圧死する。この時国府を最上郡大山郷(現在の山形か河北町)移すことを朝廷に願い出るも却下される。
875年 近江国坂本から酒田市宮野浦地内(160前の地図の右上の漁村)に日枝神社(現在も宮野浦に残っている)が勧請される。現在の当酒田(向かい酒田に対する呼び名で)に分社され上と下とに別れている。特に下の日和山の日枝神社は市民に山王さんと親しまれ毎年5月20日に大祭が行われる。
986年 城の輪の柵第三期改修す。外郭の木材の年輪による判定で解る。
1185年 酒田氏(坂田次郎)は奥州藤原氏幕下にあり、酒田湊を占有し廻船を行い上方までその名前が聞こえていたという。(義経記他)
1217年 奥州藤原秀衡妹君徳尼公(ゆかりの姫君とも?)が家来三十六人に守られ鎌倉の追っ手を逃れて秋田、立川町立谷沢を経て酒田湊に落ち延び、向かい酒田(最上川の南=当時の酒田)に庵を結んでいたが、90歳にて没す(泉流寺縁起)と云う。ただ、家来が36人というのはちょっと語呂が良すぎて本当とは信じがたい
徳尼公持参の秘仏 徳尼公の像 36人衆の碑
1274年 安東水軍(興国年間(1340-46)の大津波により壊滅した十三湊の安東氏の貿易軍団)が酒田湊に東水館を築く。(荘内歴史年表)
1200年

1300年
鎌倉時代には酒田市四ツ興野に真言宗の大淨山東禅寺(本山は生石の延命寺で本山に準ずる格式を持っていた。真言宗系統の鷹尾山修験道の末寺)と云う寺があり、衆徒(山伏)が何か事ある度に寺に立てこもり戦った。其れが、東禅寺城の始まりと云い、城主は東禅寺氏(又は酒田氏とも云う)と名乗った。(東京国立博物館蔵の文箱)
14世紀 馬、丸木舟の内陸への物資の運送が、平田舟に変わる。
1466年 白髭大洪水で東禅寺城は流され、相前後し東禅寺氏は遊佐氏(全国の遊佐姓の発祥の地)に滅ぼされた。北岸でも浸水7日、田畑57町歩と云い、南岸の酒田の津はもっと酷かった。
1478年 遊佐氏が一族の者を東禅寺城主に据えて現在の県立酒田東高校に城を移した。
1492年 当酒田(現在の酒田)に移転機運が生ずる。原因は赤川と最上川の合流地点に当たっており、洪水に会う度河口が変更され(少しづつ北側に向かっていった)船の停泊に不便をきたしたからとされる。このため、向かい酒田は砂に埋もれており、僅かに寺の古文書、絵地図などからしか面影を見る事が出来ない。当時は向かい酒田千余軒、当酒田105軒(酒田港誌)であった。
1522年 向かい酒田に住んでいた三十六人衆も移転を始める。当酒田の町が碁盤割に町割りされたり、三十六人衆の町人の自治になったのは泉州堺を模倣したものと云う説もある。
1590年 上杉景勝が豊臣秀吉に庄内を賜る(実質は家来の直江山城守忠勝の所領)。
136年前の酒田付近 124年前の酒田付近 亀ヶ崎城
1601年 関が原の戦い後、最上氏が当時上杉の支配下であった東禅寺城を攻め、この時酒田の町が兵火に見舞われ全焼した。酒田の三十六人衆は上林和泉、永田若狭を大将として秋田との県境吹浦口を守ったというが、秋田東太郎に破られたと云う。
1603年 最上義光は酒田に大海亀が上がったと聞き、大いに其の奇端に喜び東禅寺城を改め亀ヶ崎城とし更に大梵寺城(またの名を大宝寺城)を鶴ヶ岡城(現在の鶴岡市)と改めた。この他酒田の東の中山を松山(現飽海郡松山町)にし、田尻を竹田(現飽海郡松山町竹田)に改名し、鶴亀松竹とに因んだものにしたと云う。
当時亀ヶ崎城は2万1千坪の平城ではあったが、西に新井田川、西南に最上川、東南に深い沼があり天然に要害であったという。為に攻めた最上氏も中々落とせず、和を講じてやっと手に入れたという。その後、最上氏は酒田湊の修理を行い、船舶の航行に便宜を計らった。と同時に最上、伊達に至る交通網の整備をし、江戸期の酒田湊の繁栄の礎を開いた。
1615年 江戸幕府の「一国一城の廃城令」が施行された時、特に庄内には鶴ヶ岡城(鶴岡市)と亀ヶ崎城の二箇所が許された。
1622年 イエズス会の神父ディェゴ・ガブリエルが3日間滞在し、酒田の信者とミサを上げたとイエズス会日本年報に記録している。1626年にも3名の宣教師が来酒し、酒田(トーマス茂助他30人)と鶴岡の信者(数ヶ月前に200名が追放されており、其の時の信者は約50名位であった)の家に出かけミサをおこなった事も出ている。その後1629年には厳しい弾圧があり、鶴岡で20名酒田で10名が投獄され其の殆どが殉教した。
1656年 酒田大火(明暦の清十郎火事)で704戸焼く。
1659年 内陸の天領(最上藩取り潰しの結果出来た)からの米を西回り航路で大阪経由で江戸に運ばれる(大阪廻米という)ようになった。それ以前は大津廻米と云い、敦賀経由で大津、大阪、江戸に運んでいた。まれに東回り航路で江戸廻米があったが、東回り航路は難所の津軽海峡を通らねばならず不安定であったことから、西回り航路が断然多かった。東回り航路に積まれるものは其のほとんどが米に限定されていた。
1672年 江戸の商人河村瑞賢は江戸の急激な人口の増加に対処する為、内陸の幕府直轄地からの米を送る為の調査と実行を幕府に命ぜられて一行56人と共に加賀屋に泊まった。そして酒田湊と最上川の舟運を調査し、日和山公園下と湾口に急設の米倉を作らせた。村山南部、庄内、由利(秋田県南部)の米を酒田湊に集め、それを西回りで下関をとおり江戸へと運んだ。この事により酒田〜江戸間の西回り航路の開拓に成功した。5月2日に出発し、途中一隻の脱落もなく無事江戸に7月には到着した。これまでより、日時、労力、品質から見ても大成功に終わった。これ以降私領米、他の特産物も上方に今までよりまして大量に送られるようになり、逆に上方からも物資が送られて来、それらの物資は最上川を逆上り新庄、大石田他の内陸に送られた。
1682年 庄内に空前の洪水起こる。
1688年 井原西鶴の「日本永代蔵」に酒田の大商人「鐙屋」の繁盛振りが紹介された。
1689年 芭蕉が奥の細道の紀行中酒田の俳人伊藤不玉宅(鐙屋の裏に住む藩のおかかえ医師)に滞在する。
1726年 酒田大火が起き2000戸を焼く。
1733年 酒田湊で千石船が作られていた記録がある。
1751年 同町荒瀬町から出火(豊後火事)2400戸、船10隻、米10万俵、タバコ10個を焼き、焼死者80名でる。
1753年 最上川、赤川の大増水で河口が変わった。
1758年 最上川の中流の洪水で亀ヶ崎城が浸水。同年7月伝馬町より出火1407戸が焼失。
1772年 同町片町より出火2355戸を焼く。
1780年 庄内大地震で被害が出る。
1793年 染谷小路より出火940戸を焼く。
1796年 3月25日大風で御城米船、商船百艘がもみ合い修理したとあり、又其の時海船を建造したという記録も残っている。
1798年 千七百石船辰悦丸が作られた。
この船に加賀藩の抜荷=ロシアとの交易で有名になる北前船の高田屋嘉兵衛が酒田で辰悦丸の船頭として抜擢されている。)等の江戸時代の鎖国中の規制の中で大船を建造している。
これで船運だけでなく造船業も盛んに行われたいた事が分かる。
酒田港の繁昌ぶりは天和(1680年)の頃で、年に2500〜3000隻の船の出入りがあったと記録に残っている。北は松前船、南は鹿児島船であり、加賀、越後、越前、石見越中、丹後、但馬、大阪船なども見える。
日枝神社の大祭の山鉾の山車
1804年 鳥海山噴火で、西の松島と云われた象潟(秋田県由利郡象潟町)が隆起する。飽海田川郡で被害死者があり、死者333名、倒壊家屋5500軒、酒田では津波で浸水家屋300軒。
1822年 この年2回目の火事で2144戸が焼ける。とりわけ社寺の火事焼失が多かった。
1828年 最上川が洪水を起こし浸水352戸、濡米200俵。
1833年 地震がおき、庄内で死者42名倒壊家屋475軒、沿岸を津波が襲った。
1840年 酒井家が転封の命を受け大騒ぎとなる。
1845年 酒田町の淡路小路より出火1000戸余を焼く。
1852年 吉田松陰がおりしも外国船が出没する日本海側を視察の為、藩に届けず密かに来酒
         
江戸時代の酒田湊絵図 江戸時代の酒田湊絵図 宮野浦の砲台絵図
  
1868年 戊辰戦争で酒田三十六人衆、町兵が吹浦口にて政府軍と戦闘を交える。
1869年 酒田県となり、亀ヶ崎城に民生局が設置される。幕府軍であった酒井藩の居城のあった鶴岡を避けたものと考えられる。
1873年 農民の年貢米の石代金納を実施しなかったことから、1874年にワッパ騒動(当時の薄い杉板で作った曲げ木の弁当箱で、これに一杯の金が戻るということから名づけられた)が起こった。米を税で納めさせ当時のインフレ経済のさなか県では利鞘を稼いでいた。農民2万人規模の大騒動で内務省から調査に来て明治7年以降について実施するとの判決を言い渡した。農民達はこれで納得せず多くの検挙者を出した。1876年に自由県運動家と知り合い、多くの運動方法を知り政府、官僚に訴えだけるでなく新聞にも掲載し世論に訴えるようになった。当時の酒田県大参事松平親懐は禁獄7ヶ月と農民運動は勝利したものの、両羽橋建設と学校建設の資金を天引きされ判決額の僅か34%しか戻ってこなかった。
1875年 酒田県が廃止され、鶴岡県となる。
1876年 鶴岡、山形、置賜県を廃止統合され、山形県となる。
1879年 最上川、赤川が洪水で又、湊口が変わる。
1881年 三十六人衆が集まり、泉流寺にて徳尼公600年祭を行う。
1889年 酒田に町制がしかれ、初代町長に本間光輝がなる。
1891年 本間家が福岡県より技術者を呼び乾田馬耕を普及させる。
1893年 酒田の豪商達が、相馬楼にて宮中を真似た新年会を模様して不敬罪に問われ大騒ぎとなる。
1894年 庄内地震起きる。酒田の西側を走る活断層が原因と見られ、酒田を中心に死者726人負傷者726人、家屋全壊3858軒、家屋焼失3858軒(内酒田全焼1747戸、倒壊1558戸、死者162人)。

80年前の酒田付近 78年前の酒田付近 酒田湊の改造図
1895年 宮野浦海岸湊口に西洋式木造六角灯台が建設される。後大浜に移され、現在は使命を終え日和山公園内に移設される。木造式の現存する最古の灯台と云う。
現存する日本最古の木造灯台 米 の 搬 送 山居倉庫(米倉)
酒田湊に停泊する汽船 最上川を遡る平田舟 朝日山の常夜灯(江戸期の物)
1908年 電灯が付灯り、電話開通(商人を中心に加入者180名)する
1919年 酒田、鶴岡間に鉄道開通す。
1932年 飽海郡本楯村に柵址(現酒田市)が見つかり発掘。城輪柵址として史跡に指定される。
1933年 市制がしかれる。初代市長中里重吉。
1944年 湊に南北防波堤を竣工す。これにて最上川と新井田川が分断される。赤川の河口を酒田市浜中地区に移し、最上川の少し上流に河口があった京田川の流れを変更し旧赤川の河口に流した。
1945年 6月30日第一回目の空襲、飛行機10機が飛島方向から進入し、機雷55個を落とす。
8月10日第二回目の空襲、朝艦載機16機が、続いて11機来襲し銃爆撃を繰り返す。
終戦後、米軍が一個大隊で山形造船(当時海軍の所有となり、木造の輸送船を作っていた)に駐留する。
1976年 10月29日夕刻映画館より出火、折からの30mの風にあおられ一晩中燃えて酒田大火として全国に新聞、TV等で報道された。中心街1017戸、神社11社を類焼し、死者一名で11時間燃え続けた。
 明治に入り千石船での廻船を主体とする商人達は、運搬手段が大資本を必要とする船足の速い汽船に変わり次第に没落する者が増えていった。ついで汽船よりも早い鉄道、車などの陸運に押され中継ぎとしての新興商人の台頭が目立つようになる。。新しい考えで模索し転業をした者、本間家のように儲けた金を土地に変えた者が明治、大正、昭和20年頃まで生き残っている。かつて大商人と呼ばれた者の中で家業をあきらめて東京に出て行った者、廃業しサラリーマンとなった者が多い中で、現在会社組織ではあるが、其れも幅広い意味での商人として見れば、残っているのは僅かに本間家くらいである。
 日本海随一といわれた湊酒田は舟運に始まり、舟運に終わった感がある。だが、今は「酒田北港の開発」により多少ではあるが、県内唯一の貿易港として「湊酒田」の復活の兆しが出ている。