1601年 |
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関が原の戦い後、最上氏が当時上杉の支配下であった東禅寺城を攻め、この時酒田の町が兵火に見舞われ全焼した。酒田の三十六人衆は上林和泉、永田若狭を大将として秋田との県境吹浦口を守ったというが、秋田東太郎に破られたと云う。 |
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1603年 |
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最上義光は酒田に大海亀が上がったと聞き、大いに其の奇端に喜び東禅寺城を改め亀ヶ崎城とし更に大梵寺城(またの名を大宝寺城)を鶴ヶ岡城(現在の鶴岡市)と改めた。この他酒田の東の中山を松山(現飽海郡松山町)にし、田尻を竹田(現飽海郡松山町竹田)に改名し、鶴亀松竹とに因んだものにしたと云う。
当時亀ヶ崎城は2万1千坪の平城ではあったが、西に新井田川、西南に最上川、東南に深い沼があり天然に要害であったという。為に攻めた最上氏も中々落とせず、和を講じてやっと手に入れたという。その後、最上氏は酒田湊の修理を行い、船舶の航行に便宜を計らった。と同時に最上、伊達に至る交通網の整備をし、江戸期の酒田湊の繁栄の礎を開いた。 |
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1615年 |
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江戸幕府の「一国一城の廃城令」が施行された時、特に庄内には鶴ヶ岡城(鶴岡市)と亀ヶ崎城の二箇所が許された。 |
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1622年 |
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イエズス会の神父ディェゴ・ガブリエルが3日間滞在し、酒田の信者とミサを上げたとイエズス会日本年報に記録している。1626年にも3名の宣教師が来酒し、酒田(トーマス茂助他30人)と鶴岡の信者(数ヶ月前に200名が追放されており、其の時の信者は約50名位であった)の家に出かけミサをおこなった事も出ている。その後1629年には厳しい弾圧があり、鶴岡で20名酒田で10名が投獄され其の殆どが殉教した。 |
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1656年 |
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酒田大火(明暦の清十郎火事)で704戸焼く。 |
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1659年 |
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内陸の天領(最上藩取り潰しの結果出来た)からの米を西回り航路で大阪経由で江戸に運ばれる(大阪廻米という)ようになった。それ以前は大津廻米と云い、敦賀経由で大津、大阪、江戸に運んでいた。まれに東回り航路で江戸廻米があったが、東回り航路は難所の津軽海峡を通らねばならず不安定であったことから、西回り航路が断然多かった。東回り航路に積まれるものは其のほとんどが米に限定されていた。 |
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1672年 |
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江戸の商人河村瑞賢は江戸の急激な人口の増加に対処する為、内陸の幕府直轄地からの米を送る為の調査と実行を幕府に命ぜられて一行56人と共に加賀屋に泊まった。そして酒田湊と最上川の舟運を調査し、日和山公園下と湾口に急設の米倉を作らせた。村山南部、庄内、由利(秋田県南部)の米を酒田湊に集め、それを西回りで下関をとおり江戸へと運んだ。この事により酒田〜江戸間の西回り航路の開拓に成功した。5月2日に出発し、途中一隻の脱落もなく無事江戸に7月には到着した。これまでより、日時、労力、品質から見ても大成功に終わった。これ以降私領米、他の特産物も上方に今までよりまして大量に送られるようになり、逆に上方からも物資が送られて来、それらの物資は最上川を逆上り新庄、大石田他の内陸に送られた。 |
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1682年 |
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庄内に空前の洪水起こる。 |
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1688年 |
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井原西鶴の「日本永代蔵」に酒田の大商人「鐙屋」の繁盛振りが紹介された。 |
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1689年 |
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芭蕉が奥の細道の紀行中酒田の俳人伊藤不玉宅(鐙屋の裏に住む藩のおかかえ医師)に滞在する。 |
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1726年 |
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酒田大火が起き2000戸を焼く。 |
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1733年 |
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酒田湊で千石船が作られていた記録がある。 |
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1751年 |
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同町荒瀬町から出火(豊後火事)2400戸、船10隻、米10万俵、タバコ10個を焼き、焼死者80名でる。 |
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1753年 |
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最上川、赤川の大増水で河口が変わった。 |
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1758年 |
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最上川の中流の洪水で亀ヶ崎城が浸水。同年7月伝馬町より出火1407戸が焼失。 |
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1772年 |
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同町片町より出火2355戸を焼く。 |
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1780年 |
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庄内大地震で被害が出る。 |
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1793年 |
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染谷小路より出火940戸を焼く。 |
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1796年 |
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3月25日大風で御城米船、商船百艘がもみ合い修理したとあり、又其の時海船を建造したという記録も残っている。 |
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1798年 |
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千七百石船辰悦丸が作られた。
この船に加賀藩の抜荷=ロシアとの交易で有名になる北前船の高田屋嘉兵衛が酒田で辰悦丸の船頭として抜擢されている。)等の江戸時代の鎖国中の規制の中で大船を建造している。
これで船運だけでなく造船業も盛んに行われたいた事が分かる。
酒田港の繁昌ぶりは天和(1680年)の頃で、年に2500〜3000隻の船の出入りがあったと記録に残っている。北は松前船、南は鹿児島船であり、加賀、越後、越前、石見越中、丹後、但馬、大阪船なども見える。 |
日枝神社の大祭の山鉾の山車 |
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1804年 |
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鳥海山噴火で、西の松島と云われた象潟(秋田県由利郡象潟町)が隆起する。飽海田川郡で被害死者があり、死者333名、倒壊家屋5500軒、酒田では津波で浸水家屋300軒。 |
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1822年 |
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この年2回目の火事で2144戸が焼ける。とりわけ社寺の火事焼失が多かった。 |
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1828年 |
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最上川が洪水を起こし浸水352戸、濡米200俵。 |
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1833年 |
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地震がおき、庄内で死者42名倒壊家屋475軒、沿岸を津波が襲った。 |
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1840年 |
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酒井家が転封の命を受け大騒ぎとなる。 |
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1845年 |
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酒田町の淡路小路より出火1000戸余を焼く。 |
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1852年 |
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吉田松陰がおりしも外国船が出没する日本海側を視察の為、藩に届けず密かに来酒 |
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江戸時代の酒田湊絵図 |
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江戸時代の酒田湊絵図 |
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宮野浦の砲台絵図 |
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1868年 |
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戊辰戦争で酒田三十六人衆、町兵が吹浦口にて政府軍と戦闘を交える。 |
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1869年 |
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酒田県となり、亀ヶ崎城に民生局が設置される。幕府軍であった酒井藩の居城のあった鶴岡を避けたものと考えられる。 |
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1873年 |
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農民の年貢米の石代金納を実施しなかったことから、1874年にワッパ騒動(当時の薄い杉板で作った曲げ木の弁当箱で、これに一杯の金が戻るということから名づけられた)が起こった。米を税で納めさせ当時のインフレ経済のさなか県では利鞘を稼いでいた。農民2万人規模の大騒動で内務省から調査に来て明治7年以降について実施するとの判決を言い渡した。農民達はこれで納得せず多くの検挙者を出した。1876年に自由県運動家と知り合い、多くの運動方法を知り政府、官僚に訴えだけるでなく新聞にも掲載し世論に訴えるようになった。当時の酒田県大参事松平親懐は禁獄7ヶ月と農民運動は勝利したものの、両羽橋建設と学校建設の資金を天引きされ判決額の僅か34%しか戻ってこなかった。 |
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1875年 |
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酒田県が廃止され、鶴岡県となる。 |
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1876年 |
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鶴岡、山形、置賜県を廃止統合され、山形県となる。 |
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1879年 |
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最上川、赤川が洪水で又、湊口が変わる。 |
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1881年 |
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三十六人衆が集まり、泉流寺にて徳尼公600年祭を行う。 |
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1889年 |
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酒田に町制がしかれ、初代町長に本間光輝がなる。 |
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1891年 |
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本間家が福岡県より技術者を呼び乾田馬耕を普及させる。 |
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1893年 |
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酒田の豪商達が、相馬楼にて宮中を真似た新年会を模様して不敬罪に問われ大騒ぎとなる。 |
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1894年 |
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庄内地震起きる。酒田の西側を走る活断層が原因と見られ、酒田を中心に死者726人負傷者726人、家屋全壊3858軒、家屋焼失3858軒(内酒田全焼1747戸、倒壊1558戸、死者162人)。 |
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